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子育てに焦りと不安はありませんか?

 漢和辞典によると「親」という文字は「辛さを見る人」と分解できるとあります。考えてみれば、親こそが子どもへの焦りと不安に耐え、それを消化した上で、わが子に安心の態度でかかわることだと思います。その母親としての自分づくりが、自己矛盾を解決していくエネルギーになります。そして、わが子を本心から包み込む母親としての自信を成しとげていくものと思います。
 現代社会そのものに、母親の焦りと不安を掻き立てる側面があります。人の生き方を勝ち組と負け組みに分け、競争意識を持たせようとします。子どもの社会にもこの論に加担し、能力を求めている傾向があるように思います。子どもの発達と自己成長に即した形成評価をじっくりみる論が影を潜めているように思うのです。
 後者に立ち返った教育論が、母親にわが子への明るい将来展望を保障するのではないでしょうか。その考えは甘いとお考えの方々もいるでしょうが今一度じっくり考えてみるのも必要なことではないかと思い立ち、いろいろと書いてみることにしました。何か参考になるとすれば幸いに思っています。

ごこう幼児教室/御幸 

 

A・焦りと不安を生む社会的背景

現代の母親には子育てに自信がないという人が多いようです。「叱らなければ親ではない。」とか、「たとえ罰を与えてでも教えなければならないことは教えなければならない。」などと過激なことを言うと、母親の中には、「私の子育ての考え方は間違っていなかった。」という自信がついた。と賛同してくれる母親がいるでしょう。しかし、同時に「叱るということは、子どもの自主性の発達を阻害する。」と反対する母親も少なくないと思います。

このように、子どもの育て方についてはさまざまな意見があるということは、日本の母親には子育ての仕方、さらには子育ての目標についてのコンセンサスが乏しいか無いと言えるかもしれません。このような子育てについてのある意味での「混乱」は、今に始まったことではないようです。この「混乱」は少なくとも十年以上は続いています。いや、もしかすると戦後から今日までその混乱の度合いを増幅しながら続いているのかもしれません。

この意味での「混乱」が、母親たちの「焦り」とか「不安」と関係しているのではないかと考えるのです。勿論このことの社会的背景は複雑でそんなに簡単に答を導き出せるものではありません。ここでは、「不安」とか「焦り」についていろいろな文献、資料に基づいて「混乱」の理由について述べてみようと思います。

 

(イ)個人主義的文化の流入

戦後、日本では急激な価値観の転換という現象が起きました。つまり集団主義に基づく価値観と個人主義に基づく価値観です。戦前の考え方が間違っていたので新しい「正しい価値観」を導入しようという考え方が優勢になりました。ここで言う新しい価値観とは、西欧、特にアメリカ的な個人主義に基づく価値観で、日本人の生き方や考え方が何百年もの間育まれてきた「集団的価値観」が突然「個人主義的価値観」に移行すると混乱を生じることは当然といえるでしょう。しかし私たちは、大した混乱も起こすことなく徐々に「個人主義化」されて、現在に至っています。つまり「望ましい方向」と受け止めているのが一般的な現状認識です。本当にそうでしょうか。現実はそれほど単純ではなさそうです。

私たちの考えは、徹底した個人主義でもなければ集団主義でもないといえるでしょう。つまり、現在の日本人は、ある時は「個人主義」であり、またある時は「集団主義」というように優柔で中途半端な状態といえそうです。

ここから、当然のことながら、価値観の混乱、もしくは価値観の「ねじれ現象」を起こすことになると思っています。この現象が、母親の子育てについても「焦り」とか、「不安」を起こさせている日本人独特の社会的背景があると思っています。

 

B・成熟した社会の母親

 「子育て110番」に日に数十件あるいはそれ以上の子育ての悩みの電話がかかってくると聞いています。このことからも多くの母親は、子育てに焦りや不安を感じていると想像しています。

現代を生きる母親たちが、子どもを育てることに対して自信がもてず、迷いや不安を抱えているということになるでしょう。

どの時代にも、安定した状況で自信を持って子育てをしている人もいれば、自信が持てずに焦りや不安を感じながら子育てに携わっている人もいるものです。ではなぜ、こういうことが昨今いわれるようになったのでしょうか。前者の母親たちよりも後者の母親たちの方が目立っているとしたら、かつてはなかったような焦りや不安を喚起させる要因が、新たに現代の母親たちに加わったということでしょうか。あるいは現代の母親たちが、かつての母親たちに比べて焦りや不安を抱える力が弱化したからでしょうか。あるいは子どもの側に母親の焦り、不安を喚起させるような異変が生じているために、親たちが焦りや不安に駆られるようになっているのでしょうか。

子育てをしている母親たちの心のあり様が、外側から見えやすくなったということもあるのかもしれません。

この問題を考えていくにあたり、時代の流れと母親たちをとりまく社会の変化に視点を当ててみる必要があると思います。

 

C・社会の枠組みがゆるんで・・・

現代社会は、大人(親)が子どもにどのように関わったらよいのか、わからなくなっている時代ではないかと思います。その、大人たちの困惑と深く関わっている要因の一つとして時代の流れにともなって生じる社会の変化が挙げられるでしょう。やや古い話になりますが、一昔前までは、例えば「弱い者やお年よりはいたわる。」とか、「目上の人には敬意を払う。」「人に会ったら挨拶をする。」など、何はどうする、何はどうしてはいけない、というような決まりが厳然としてあり、親も大人もそれに従って子どもをしつけてきました。「それはそういうものだから。」という理屈抜きの強制力が社会全体の側にあったといっても言い過ぎではありませんでした。その意味では、かつては、枠が強固な時代だったといえるでしょう。枠〈制約〉が強固で、それを変えることが出来ないようなときには、そこを越えようとする人々の気持ちを閉じさせ、人々は「その枠の中でどう生きるか。」を考える方向にエネルギーを注ぎ込み、生き方を模索します。

女性にとって、社会に進出するという選択肢がなく、自分で結婚相手を選べず、家が決めた結婚をするしかなかったという選択の自由がなかった時代は、さほど昔のことではありませんでした。ところが昨今、社会の中のさまざまな枠組みが緩んできました。これを受けて女性たちも、かつてのように家のために結婚を強いられるということはなくなり、自分の意志で決めることが出来るようになりました。それにともない、女性が社会に進出するようになり、職業につく自由も、結婚する自由も、しない自由も持つようになりました。

このように社会が変わると、人の内面もその影響を受けることになります。現代を生きる女性たちは社会的に開かれ、情報もたくさん得られるようになり、生き方の選択肢が増えてきました。 自由を得た代わりに、その多様さの中でどのように自己実現していくかということを、個々人が積極的・主体的に考えねばならなくなってきたといえるでしょう。このことは、「みんながそうするから。」というように受身的に生きることが出来なくなったということであり、これまでよりも自分の適性を考え、能力を磨き、何をして生きていくかと言うことを一生懸命に考え、自分自身を内的に充実させていかなければ、生きていけないような時代になってきたということだと思います。そういう意味で女性にとっては、これまでとは違った質の生きる力の必死さが、必要になってきているといえるでしょう。

 

D・しつけをめぐる逡巡

このように現代は、社会が成熟していく過程で、個々人が自分に合った新しい枠組みを作っていく過渡期にあたっていると考えています。

ここには二つの問題点があります。ひとつは肝心の新しい枠組みがまだ出来ておらず、いわば既存の枠組みが取り払われただけの中途半端な状態にあるということであり、もうひとつは、人々がまだこの変化を十分に自覚しているわけではない、という問題です。このような過渡期の混乱をわかりやすく示してくれている一つの例が、しつけをめぐる今日的状況と考えています。

自分の生理的欲求に導かれて世間との関わりを開始した赤ちゃんは、親や大人の日々の関わりから、自分の欲求が叶うこともあれば叶わないこともあるという現実に直面しながら成長します。さまざまなことを体験していく過程で、親や大人がある時には壁となり、子どもに自分の気持ちや気分だけではどうにもならないことがあるということを教えていきます。

社会の決まりや秩序を教えていくのが、いわゆる「しつけ」です。これは、放っておけば自然に身についていくものでも、自分のなかで勝手に育っていくものでもなく、ある程度親や周囲の大人がきちんと方向性の定まった働きかけを行なうことによって、子どもたちが獲得していくものであると思っています。

通常の人々は、まず『形から』きまりに従うことで、次第にその決まりの中身を理解するようになっていました。というのも、個々のしつけの内容は「なぜそうしなければならないの。」ということについて、絶対的な説得力を持っていないからです。いわば「理屈抜きの指示」がまず子どもたちに与えられ、個々人は体験を通して「なぜそうするとよいのか。」ということを体感することで引き受けていったのではないでしょうか。これはいわば、知的納得よりもむしろ、肌で感じる共存の感覚です。このような過程によって、社会のなかの統制が取れ、見知らぬ同士が共存することが可能になったと考えられます。

ところが現代ではその「理屈ぬきで指示に従わせる。」威力は失われ、代わりに親が自分自身で判断しながら、子どもとの「しつけをめぐるバトル」に臨まなければならなくなっています。

昨今の子どもに関してさまざまなことがわかってきたことにより、クローズアップされるようになりました。子どもたちに発達の偏りがあったり、気質の難しさや育てにくさがあったりで、関わることが難しい場合には、そうでない場合よりも困難になるでしょう。また、反抗期を迎えた子どもとの間で親が虐待的な関わりになりがちなのも、しつけが難しい時期だからだと思っています。これらの問題があるうえに、どのように身辺自立や知的能力を身につけさせ、世の中の決まりを理解させ、社会の中で他者と共存できる子どもに育てていくかということが、両親二人の肩の上にかかっていると言えるでしょう。つまり、両親は子育てをめぐり未曾有の困難さを抱えている時代に入っていると言っても言い過ぎではないと思います。そう考えると、両親、特に母親たちの精神的な負担はかつてないほど大きくなっているといえるでしょう。

このように、しつけをめぐる大人の役割が今、大きく変化しつつあるわけですが、実は今の大人たちが自分たちで社会規範の力を弱めたわけでなく、社会がそのように変化しつつある時代にたまたま親になっただけのことだと思っています。それゆえに、そこで何が起こっているのか、自分たちに新たに何が課せられているのかについて、両親たちもわからないまま、子育てに携わっているというのが現代の状況ではないでしょうか。

 

E・心の声を聞く社会に

昔から子育ては「親の責任」、とりわけ「母の責任」であると、女性達は常に社会から押し付けられてきました。これだけ女性が社会に進出し、働くことが当たり前になっている今日でもなお、母性信仰はそんなに変わっていません。子どもは可愛く、いとおしい存在であるというのは事実ですが、同時にある瞬間、ある関わりの中で可愛くないとか、憎たらしい、あるいは「こんな子はいないほうがいい。」とか「産まなきゃよかったな。」と思う等と否定的な感情を親が抱くことは、特殊な例でなくなってきたように思います。

ところが、これまで、日本の社会は、母親が子どもにそのような否定的・拒否的な勘定を口にすることはおろか、こころのなかに抱くことすら「あってはならないこと。」と禁じてきました。そういう感情を「ない」ことにするしかなかった時代には、私たちは自分の中だけで考えるか、仕方のないことで考えないようにするしかありませんでした。わが子に対して否定的な感情を抱くのは、母親として辛いもの、切ないものです。誰にも言えないような感情が自分のなかにあるということは、人を罪責的な気持ちにさせます。このような社会からの母性愛の押しつけと、自分のなかの抑制機能とが重なって、母親が子どもに対して可愛いと思う感情と同時に、可愛くないとか嫌いだというような否定的な感情を持つことは長い間、「ない」こととして封印されてきました。

ところが近年、人の心の世界に対して、人々の関心が集まるようになってきました。そして、女性ならではの感性や考え方が、ようやく社会の表舞台にあがるようになってきて、女性の苦悩もまた、社会参加を許されるようになり、女性(母親)たちの本音がやっと聞けるようになりました。子育て不安が蔓延し、子育ての情報誌に母親の不安や悩みがたくさん掲載されているのはこのゆえであると思っています。ニュースで再々見聞きする子どもの虐待事件が増加しているのも、昔よりも今の親が子どもを虐待するようになったというよりも、子育ての大変さを自分の子どもとの間にだけ閉じ込めず、むしろ社会に対して積極的に訴えることで外に援助を求める方向に変わってきたことを受けての現象でないかと感じています。

 

F・苦悩は質の違いか?

一家に子どもがたくさんいた時代と比べて、子どもの数が少ない現代では、一見、親の子育てに向けるエネルギーは軽減させているかのように見えます。しかし実際にはその逆のようです。

少子化傾向は、親が一人の子どもにていねいに関わり、育てていく物理的、そして時間的ゆとりを生み出しました。子どもの数が多ければ分散するであろう親のまなざしが、一人の子どもに注ぎ込まれます。そのために、必然的に親子の関係は濃厚になっていきます。そこに親の期待も込められ、過剰に膨らんでいきます。子どもに対して「よいことをしてあげたい。」と思えば思うほど親は「どうしたらよいか。」と迷いが出てきます。「ちゃんと育てたい。」という熱い思いは「ちゃんとはならない。」という現実に出会うことで阻まれます。その親心は、しばしば「ちゃんとさせなければ。」という心理的圧迫へと、その中身を変質させていきます。これは、少子化傾向が生み出した母親たちを圧迫する要因なのです。ここから焦りと不安が生じてくるものと思っています。

今日では父親の育児休暇とか父親の子育て参加、ということが言われるようになりました。子どもが心理的な問題を起こしたときに父親も相談に来るということは、以前に比べて格段に増えてきました。しかし日常の子育て、つまり特に何事も起こらない毎日の生活のなかでの子育ての中では、父親の影がいまだにきわめて薄く、母親たちは孤軍奮闘を強いられています。母親たちがきついと感じ、どうしたらよいのか迷い悩むのは、この「何事もなく過ぎていく毎日」の中にこそあるのではないでしょうか。煮詰まりがちな母子関係のなかで、自分の判断だけで子育てに携わらなければならない母親たちの心境は想像を絶するほどに孤独といっていくでしょう。

現代ではインターネットなどにより、いくらでも情報を入手できる時代になっています。これによって、得られる情報の中から選別し、自分の子どもに合った情報を的確に取捨選別することが個々人に課せられるようになりました。しかしそれは難しく、しばしば情報に振り回され、混乱に陥ってしまい、焦りと不安を持ち始める危険性もあります。しかし過渡期ならではの現象と思っています。こう考えてみると、子育てをめぐる状況は決して楽な方に向っているわけではありませんが、悪い方に向っているということでもないと思います。時代の流れをうけて社会が成熟していく過程で生じている転換期の渦のなかに巻き込まれているということでしょう。

子育てに正解などありません。間違いのない子育てなどありません。ということを、母親たちは頭のなかではわかっていると思います。同様に「ちゃんとした母親になる。」ということなど、叶うものではなく「そこそこの母親であれば・・・」になるくらいが互いにとってほどよいのかもしれません。ということも冷静になれば実感することでしょう。にもかかわらず、焦りや不安にかられていくのは、母親の子どもに対する愛情が薄くなったからではありません。これまで母親たちを縛ってきた枠が緩み、母親たちの生の声が外に向かって発信されるようになってきたことで、外から見えやすくなってきたということではないでしょうか。

 

(イ)個人の「自立性」の強調

個人主義的な価値観は、その原点に「自律性」の確立というものがあります。つまり、他人からの影響ではなく、自分自身が決めた規範に従って行動することが求められます。これに対して集団主義的な人たちは、「他律性」を重視します。あまり自分の考えを表に出さず、他人の意見を受け入れて行動するということを善しとします。

日常の生活において、私たちはどちらの立場で行動しているでしょうか。

若い人たちには自律的な生き方をしている、あるいはそうしようとしている人たちが増えていることは確かです。しかし、全体的に現在の日本人はまだまだ他律的な考え方をする人が多いのでないでしょうか。

物事を決めるにあたって、理屈の上では善しとする「自律」と、気持ちの上で善しとする「他律」との間に葛藤を起こしていることになります。この種の心理的葛藤が、人々の気持ちを「焦り」にしたり、場合によっては「不安」を感じさせたりしているのではないでしょうか。

 

(ロ)価値観の多様化

自律性の重視、そして自己決定主義の強調は、当然のことながら価値観の個人化というところに行き着きます。つまり価値観の多様化という社会現象となって表面化しているのです。この価値観の多様化という社会現象を、母親の子育てという場面に当てはめて考えてみるとわが国では次のような混乱が起きていると考えられます。

日本の母親は、他国の母親に比べて、自分の子どもをどんな子どもにしたいかという子育ての目標に関するコンセンサスが乏しいのです。母親たちは各人各様に、自分の子どもはこのように育てたいと考えています。これに対して多種多様な人たちが住んでいる欧米の母親の方が日本の母親よりも、子育ての目標ということに関してはかなりの一致があるようです。

日本の母親とアメリカの母親の子育ての10年前のある意識調査ですが「自分の子どもをどんな子どもに育てたいですか。」という質問の結果ですが、日本の母親は「思いやりのある子に育てたい。」とか、「責任感のある子に育てたい。」とか「協調性のある子に育てたい。」とか「約束を守る子どもに育てたい。」等々といくつもの「目標」を挙げ、いずれも過半数を超えた目標はなかったそうです。この現象は、まさに価値観の多様化を如実に表しているのではないでしょうか。皮肉にも日本の子供たちの「思いやりのある人に。」、「責任感のある人に。」の意識は欧米、アジア諸国の中でも最も低かったそうです。日本の子どもたちの思いやりや責任感の意識の低さはその後もほとんど変わっていないそうです。

日本の母親に比べて欧米の子育て目標は「正直であること。」「良識があること。」「責任感があること。」の三つに収斂して過半数を超えていたそうです。このことは、欧米の母親の方が、日本の母親よりも子育ての目標についてコンセンサスがあるといえるでしょう。別の言い方をすると、価値観の多様化を是とする欧米の母親の方が、少なくとも「子育ての目標」という点では「多様化」していないといえます。

このようにわが国特有の子育てに関しての価値観の多様化、もしくは混乱は、母親の自信を失わせる原因になっているのではないでしょうか。

価値観の多様化という社会では、自分と同じような考え方をする人や、自分の考えに自信を持たせてくれるような「外的基準」が見つかりにくいからです。このことが、集団主義的考え方から抜け出しきれない日本の母親たちに「焦り」や「不安」を起こさせていると思うのです。

 

G・母親の「焦り」と「不安」いろいろ

子どもは周囲の大人の気持ちを敏感に感じ取ります。生後十ヶ月の乳児でさえ、母親の表情を見て、未知のものに対してどう対応すべきかを読み取る力を持っています。母親が言葉に出さなくても「大丈夫よ。」と表情豊かな笑顔でメッセージを送ると、乳児はその母親の表情から「大丈夫である。」ということを読み取り、前に進むことが出来ます。しかし、「危ないからダメよ。」と不安な表情をすると、進めたものでも立ち止まって前に進めなくなります。そのような乳児の例もさることながら、子どもにとって、周囲の大人、とりわけ、母親の言葉がけや表情による影響は大きく、それが、時には励ましや支えになることもあれば、逆に不安を増大させることもあるのです。しかし、母親も一人の人間であり、いつも、精神的に安定し、笑顔で接するということの難しさもあるはずです。むしろ、女性として、妻として、母親として、嫁としてそれぞれの役割の中で、いろいろな心情をともなうのは当然のことです。「焦り」も「不安」もその一つといえます。

焦りや不安の原因はさまざまですが、概して、他者と比較した際に他者が優位に立っていると感じたとき、自分が思うように物事が進まないとき、予想外のことが起きたとき等に起こるものなのです。

母親の焦りや不安が、子どもの行動にどのような影響を及ぼすのか事例に基づいて述べてみます。

 

(事例1)母親自身の個人的原因の焦りと不安

結婚後それまで勤めていた会社を退職、家庭に入り、やがて育児に専念していた時期、会社に残っている同僚たち、出産後仕事に復帰した友達の様子を見て「私の人生は、このまま子育てだけで終わってしまうのかしら・・・」と思うと同時に次第に焦りを感じるようになりました。その後は、新聞の求人広告欄を見たり、求人雑誌に目がいくようになったりして、常に再就職のことが頭をよぎるようになりました。四歳の子どもが『お母さん!』と呼んでも時には、「うるさいわね!後にして。」とイライラしたり、時にはボーっとしたりして子どもの呼びかけに気づかないこともありました。

子どもは、そのうち母親が新聞の求人広告欄や求人雑誌に目を通しているときは、話しかけないようになりました。母親がその様子に気づき、「どうしたの?」と尋ねても「何でもないよ。いいよ。」と言ったきり口を閉ざすようになりました。母親の顔色をうかがうことが多くなり、チックが見られるようになりました。

 

(事例2仕事上の焦り

私は、会社の上司からの評価も高く、新しい組織の責任者に抜擢されるかどうかを決める時期を控えていました。なんとしてもその役職に就きたい希望もありその準備もしなければならず、連日、仕事優先が続きました。帰宅時間も当然遅くなったのは言うまでありませんでした。

子どもとゆっくり話す余裕もありませんでした。子ども相手に遊んであげる時間など毛頭ありませんでした。家にいる土曜、日曜日も仕事の準備に追われていました。幼稚園に納める教材費も忘れることが再々生じるようになりました。個人懇談も仕事のためキャンセルせざるを得ませんでした。

子どもは、そのような母親の姿に最初は我慢していましたが個人懇談の日に「お友だちのお母さんは皆来てくれるのにどうして来てくれないの?」といわれて、「ごめんなさい。大事な仕事があって行けなかったの。」と弁解したものの以後、子どもは口もきかなくなったそうです。

 

(事例3)家庭関係の中での焦り

同じ敷地内に主人の両親、主人の兄弟と一緒に住んでいます。兄夫婦には小学校高学年の子どもと一年生の弟がいます。姑は、幼稚園に通っている私の子どもと兄夫婦の子どもを事あるごとに比較することが多いのです。姑からは、「兄夫婦の子どもは幼稚園の頃から文字も読め、簡単な数の足し算、引き算も出来て、しつけもしっかりできていたのよ。」と常に高い評価をしているのに対して、わが子は評価が低くしつけもなっていないようなことを言われていました。

 

(事例4)他の母親と自己を比較した中での焦り

幼稚園に通わせている子どものお母さんは、子どもと公園に出かけては同じ年齢の子を持つ母親たちといつものように世間話をします。その中で、いつも話題になるのは教育(しつけ)のこと、幼稚園のことではないかと思います。そのうち、あるお母さんは、月に数回昼食をとり、母親たちの交流も盛んになり、お互いの家にも行き来するようになりました。だんだんと母親たちにグループが出来るようになり、自分だけが取り残されていていくような気がしました。出来るだけ都合をつけて、行動を共にするように心がけましたが次第にその輪から取り残されることを恐れる気持ちになりました。なかなか溶け込むことが出来ず、焦る気持ち、不安な気持ちは大きくなる一方で、心身ともに疲れてしまいました。その結果、子どもに対して、子どもたちとの遊びを制限したり、友達の家へ遊びに行くのにあまりいい顔をしなくなったりしました。その結果、子ども同士の関係にも次第に悪影響が出てくるようになりました。そうしているうちにいつしか仲良しグループから外れることが多くなりました。

 

これら四つの事例は、母親自身の個人的要因が子どもの行動に与えた影響と考えられます。

一つ目の事例のように、仕事を持っていた母親が出産や育児で仕事を辞めた場合、しばしば、「自分だけが取り残されていくのでは・・・」「このまま子育てで一生が終わってしまうのでは・・・」という焦燥感にかられてしまうことがあります。この焦燥感がストレスの多い状態を生み出し、四歳の子どもであっても、そのような母親の心情を察し、言いたいことも言えずに我慢するようになるのです。

子どもにチックが出たことをきっかけに病院を訪れ、医師と話をしていくうちに、自分の焦りと不安が子どもの心を傷つけていたことに気づいたそうです。その後、子どもと向き合う時間を増やすことで、子どもの情緒は安定し、チックも消失したそうです。このことからも、親(特に母親)は、子どもとの対話を積極的に多く持つことがいかに大切なことかを受け止めて欲しいものです。

 

二つ目の事例の子どもは、親が忙しくて大変な状況を、頭では理解しているように見えても、母親が自分と向き合ってくれないことに不満や寂しさを持つ幼児期から児童期までによくみられる現象です。仕事と育児の両立は大変といえます。仕事優先の中でも子育てに十分な配慮が必要でしょう。子どもにとって一番信頼できるのは母親であり、父親であることを両親自身が自覚した生活をしなければならないと思います。

 

三つ目の事例の子どもは家族関係の例です。何かにつけ姑からほかの兄弟と比較されることが多く、子どもの教育にまで及ぶことはよくある話です。二番、三番目の孫は、良きにつけ、悪しきにつけ初孫の育て方と比較されます。

いいように言われれば兄、姉に気まずい原因をつくり出し、悪く言われれば子育てへの焦りと不安が出てきます。いずれにしても双方どちらかが辛い思いをする場合が多いです。姑親は子育てについての考えは述べても比較をしないのが望ましいようです。

 

四つ目の事例は親同士の付き合いから生じたものです。他の母親たちの輪に入れず焦ったり、他の母親より自分が劣っているように感じて不安になったりするようです。この事例が一番多く、しばしばみられるケースです。

幼児でなかなか友達が出来ない場合、まず母親同士が友達になり仲良くなることが一番です。そうすることによって、その子どもも徐々に仲良く遊ぶようになります。

小学校低学年までは、親同士の関係が子どもに大きく影響されるといえるでしょう。母親の社会性が子育てに大きく影響を与えるわけです。

 

それぞれ置かれている状況は異なるにしても、母親の焦りや不安が子どもに伝わり、子どもの情緒が不安定になることは確かです。でも、母親の焦りが消失し、情緒が安定し、心にゆとりが出てくると、子どもにもそれが伝わり、子どもの情緒も安定し、支えられることになるのです。また、仮に、内心は焦りがあったとしてもそれを子どもに見せないことで子どもの不安を大きくせずに済みます。私が父母に時々言っている言葉の一つに「子どもに対して親は常にピエロのように振舞いなさい。」と言っておりますのも子どもにとって、焦りや不安の表情や態度は敏感に受け止めるからです。

母親に限らず、人は焦っている時、不安な時は心にゆとりが持てません。つい、自分の思いばかりが先行してしまったり、普段なら気づく子どもからのサインも見落としたりします。

母親が焦りからストレスの多い状態になっている時は、同時に子どもも母親の状況を読み取り、ストレスの多い状態に置かれしまう場合が多いことを認識するべきでしょう。

 

H・発達段階に応じた不安と心配

子育てをしている親にとって心配と不安はつきものであり、その心配と不安は子どもの成長とともに変化します。親がどのような問題について心配し、不安を抱き、悩んでいるかについて述べてみます。そうする中で子どもを心配することが親と子どもにとってどのような意味を持つかについて考えることにしました。

 

(イ)乳幼児期の親の不安と心配

お腹に子どもを宿しているときからすでに親としての不安と心配は始まっています。

「わが子は五体満足で生まれるだろうか。」というものでしょう。「頭のいい子どもだろうか。」「顔立ちの整った美人だろうか。」といったことは二の次の問題で、「丈夫で元気な子どもであって欲しい。」と願いながらわが子と対面する日を待つと思います。実はこの不安と心配は親としての自覚を形成する上でとても大切な不安と心配と言えるでしょう。そうした不安と心配を十ヶ月間心の中で抱えてきたからこそ、わが子と対面した時の感激と喜びはひとしおであり、その思いが今後の親子の愛着を形成していくものと思っています。

しかし元気な産声が聞こえ安心したのも束の間、初めての子育ては全てにおいてわからないことばかりです。乳児の発達の様子や、オムツ替えやミルクの作り方、お風呂の入れ方といった世話について教えてもらったとしても、実際に泣きわめく子どもを目の前にすると戸惑い、多くの心配事や不安に悩むのが普通です。

ではどんなことが乳幼児を持つ親に心配事や不安があるのでしょう。最も多い心配事に「身体的な問題」と「生活習慣の問題」と「発達の問題」の三つに大きく分けられます。これ等は二歳頃まで続きます。

身体的な中身には皮膚、目、耳などで、生活習慣の中身は食事、睡眠、排泄、清潔が挙げられ、二歳頃を境にして徐々にこれ等の心配事や不安は減少していきます。代わりに運動や情緒、社会性、言語、習癖である発達の問題の不安が徐々に増えてきます。また最近では、社会の変化にともなう新たな心配事、不安が見られるようになっているようです。

紙オムツの普及で母親はオムツ洗いの労働から解放された反面アトピー性皮膚炎という心配を生み出しています。化学物質や環境ホルモンの影響によるものと考えられているそうです。

生活習慣上の問題で気になるのは、固形物が飲み込めない子どもが増加していると聞きます。最近の子どもは食べやすく、やわらかい副食が多くなったことに影響されているのではないでしょうか。脳の発達を促すためには、物を咀嚼する力が大切と聞いております。家庭が積極的に固形物を食べさせるようにしたいものです。

次に発達上の問題では人見知りが激しくて困ると言う心配が減少し、友だちと遊べないという心配が増えているそうです。

人見知りは、親と子の間に基本的な信頼関係が築かれ他者への警戒心が強くなる生後六ヶ月頃から出現するのが普通です。そしてこの時期に母親を全面的に信頼し、安全な場所とすることが出来てはじめて友だちと遊べるようになるのです。人見知りもせず、誰に預けられても泣かない子どもは親にとって楽な子どもといえるでしょう。ところが親子の信頼関係が不十分なために人見知りもせず、友だちと遊べなくなったとすればこれは発達上の大きな問題といえるでしょう。

 

(ロ)幼児期後半の親の心配と不安

小学校に上がる頃の幼児は、自分の力で行動範囲を広げ、親からの自立の第一歩を踏み出そうとします。友だちの家へ遊びに行くのにも交通事故にあわずに行けるだろうか、誘拐はされないだろうかとその自立の第一歩が心配で不安がつきまとうようになってきます。慣れるにしたがって、遠い所まで自転車で遊びに出かけ行動範囲は益々広くなったり、帰宅時間も遅くなったりするでしょう。この時期の親たちの心配と不安は、子どもの身の安全に関することが多くなります。子どもが一人で買い物に出かけ、バスに乗るという社会的な行動がとれるようになるのもこの頃で、何度かの失敗を伴なうものです。帰り道の反対側のバス停で待っていて全く逆方向のバスの乗ってしまう子どももいるでしょう。その失敗を正直に話す子どもに、「あんたは本当にバカね。」と言う親がいるかもしれません。しかしこうした失敗を子どもがした時も、「一人だったのに間違っている方向に気づいて偉かったね。今度から気をつけようね。」と温かく励ます一言がかけられる親になりたいものです。そうすればやる気を削がずに次への自立を円滑に促すことが出来ると思います。ところがこの時期の子どもをどのように叱ったり誉めたりしたらよいかわからないという親も結構多いようです。前回の「叱り上手は誉め上手」を一読していただきたいと思います。

 

 

I・親の不安を解消する手立ては?

 (イ)親が不安を感じるとき

親が子どもとかかわる時、親が抱く理想の子ども像から目の前の子どもの状態を足し算(過大評価)して見ますか。それとも引き算(過小評価)をして見ますか。

過大評価して、子どもの現実が親の理想を下回っているとすれば、少なからずの不安を抱くものです。そして理想に近づけるための努力をすると思います。また、過小評価をするときも親は不安を抱きやすく、その不安を解消するために、子どもを親の理想に近づけようとさまざまな努力をするものです。いずれにせよ親の不安と心配は「親の仕事」と言えそうです。

「感情は無意識的な目標を達成するために、無意識的に作り出される手段である」とはアドラーの心理学の考えです。つまり不安という感情が生じる時、そこには隠された目的があるとされています。その一つは、親の理想に子どもを向かわせたい、という支配的な目的です。このような不安は、子どもの不足している部分を修正しようと固執すればするほど強くなります。

不安のもう一つの目的は、子どもに自分の幸せを作って欲しい、という依存的な目的です。親は、理想的な子どもを望むものです。この理想の子ども像は親自身の幸せの条件の一つと言えるでしょう。その幸せの条件が崩れそうになると親は焦りと不安を感じ、なんとかその条件を満たそうとします。つまり、不安が強ければ強いほど親は自分の幸せを子どもに託している度合いが強いと言えます。

 

(ロ)夫婦互いの協力

そもそも夫婦は似通った価値観を持った存在といえるでしょう。というのは自由恋愛による結婚が一般化した現代社会では、そもそもの出会いの段階から男女はお互いに似通った価値観をもつ相手を選択しているからと思っています。勿論なかには、自分に無い側面に惹かれて結婚するケースもないわけではないでしょうが、そのような場合でも、基本的には似通った価値観の基盤の上に立ちながら部分的に異なる側面があるというケースが多いのではないでしょうか。

このような結婚に際しての価値観の類似性は大なり小なり育児方針にも影響を与えると思っています。夫婦の価値観が類似し、一致している場合、子どもは両親の顔をそれぞれ窺うことなく、余計な緊張や葛藤を強いられることもないでしょう。親の側においても、夫婦で一致協力して子育てに望むことが出来る感触は夫婦間に大きな安心感をもたらし、また夫婦間のつながりを一層力強いものにするでしょう。

このように考えると夫婦というものはそもそも「協力して子育てにあたる特別な人間関係」だということも言えます。

 

 (ハ)夫婦の不一致

しかしながら夫婦の関係と言うものはそう何もかもうまくいくわけはないことも周知の事実です。夫婦が基本的に類似した価値観を有しているとはいえ実際にはそれぞれの生い立ち、育ち方も異なっており、あくまでも別の人格です。子どものしつけ一つをとっても、こまごまとしたことまできちんとコントロールしなければ気のすまない人もいます。ゆったりとおおらかにという人もいます。

このように見てみると夫婦とはいえ、その立場やものの見方はそれぞれ随分と異なっています。そのような違いは当然子育てという場面にも現れます。極言すれば、夫婦で一致協力して子育てに当たる場合よりも、むしろ不一致で悩む場合の方が多いかもしれません。

しかしこれ等の点についてはさほど心配する必要はないと思います。仮に、両親の考え方や方針の中に多少の食い違いや矛盾があったとしても、そのことで即、子どもが混乱に陥ったり、反発を示したりすることは稀です。子どもはそのような不一致を受容する力を持った存在でもあるのです。それよりも、夫婦に不一致点があるということを前提に、そのような状況の中でも一致して子育てに当たろうとする両親の努力する姿からこそ、子どもはより多くのものを受け取っていくと言えるでしょう。要するに結果としての一致・不一致を問題にするよりも不一致を当然の出発点とした考え、そこから一致に至ろうとする過程にこそ意味があると思うのです。

 

(ニ)子育ての分担

今まで述べた子どもの問題に夫婦が共に取り組もうとする限りの話で取り組もうとしない場合もあるでしょう。そのような場合は、先に述べましたように普段から家事や育児を母親に任せているか、やっているとしてもたとえば子どもと遊ぶといった都合のいい部分だけをつまみ食いしている場合ではないかと思います。

そうではなく、そもそも夫婦は対等であるという意識のもとに、子育て全般について分担を分かち合い、責任を分担する姿勢が重要です。しかしこれが非常な難問であることは言うまでもありません。

一説によると、家事や育児の分担量を考える場合、妻は全体の仕事量の二分の一を基準として考えるのに対し、夫は自分の父親や他の父親が行なっている量を基準に考えるといわれています。いわば妻は絶対的な基準に依っているのに対し、夫は相対的な基準に依っているといえるでしょう。この場合、そもそも基準が異なっているのですから両者に納得が得られないのも当然かもしれません。

では、夫婦が協同して育児を分担するためにはどうしたらよいでしょう。以下、妻の側からみた際の要点をいくつかあげてみたいと思います。

 

@子育て分担とは・・・

父親が育児に専念して仕事が犠牲になるのは考えものだし、仕事に専念して育児が犠牲になるのもまた考えものです。育児参加の中にもリラックスできる家庭でありたいものです。そうであれば、家庭は楽しいものであり、社会の中でも善い仕事ができるでしょう。父親にとっては、仕事のための安息の場が家庭であり、家族のための責任が仕事であるといえます。

育児分担はそれぞれの家庭環境、母親の考え方に依るものが大きいと思います。良き理解者(妻)とは、「夫の仕事を理解し、育児も含めたできる範囲内の家事の手伝に参加してもらう。」ことではないでしょうか。

「子は親の背を見て育つ。」とよく言われます。この場合の親は主に父親をさしているようです。幼児期後半から父親の存在を意識するようになります。家庭での父親の存在、社会での父親の存在を意識するようになります。「父親の仕事」の見学が盛んな時期がありました。家庭を支えるための父親の仕事への理解と社会で活躍する父親像の理解が目的です。父親の仕事に対して家族全員が「良き理解者」であれば幸せな家庭を営むことができるでしょうし仕事への意欲も出てくるでしょう。

(次回「父親の存在」で詳しく述べてみたいと思います。)

 

A「子どもの行事には交代参加」を原則としましょう。

幼稚園(学校)の参観、懇談会、幼稚園(学校)のいろいろな行事には夫婦が交代で参加することを原則とします。ただし、その内容により分担を決めてもよいでしょう。現実には母親の参加がほとんどではないかと言われるかもしれませんが、その状況こそが歪んでいると認識すべきでしょう。いわば「世間基準」を捨てることから始める必要があると思います。

 

B「自分の親に頼らない」と認識しましょう。

妻が自分の親に育児を頼ることは、自分がやらなくても結局誰かがやってくれる、というメッセージを伝えることでもあり、育児から夫を除外することの第一歩と認識すべきでしょう。また、育児を不用意に祖父母に依存することは親子関係全般に及ぼす影響から見ても望ましいものではありません。

 

C子どもの前で夫の悪口を言わないよう心掛けましょう。

子どもの前で配偶者あるいは祖父母の悪口を言うことは子どもに不安と葛藤を与えるだけで得るものは何もありません。また情緒の不安定を来たします。配偶者あるいは祖父母への不満は夫婦同士の間で解決する努力が必要です。また、幼稚園(学校)の先生の悪口も子どもに与える悪影響は大きいものがあります。

 

D楽しいこと、苦しいことを共有しましょう。

子育てには楽しいこともあれば苦しいこと、辛いこともあります。昨日はこんなことがあった。今日はこんなこと、あんなことがあったとそれらを夫婦で分かち合うことにより喜びを増すことも負担を減らすことも可能です。そしてこのように育児に関する苦楽を共有することがいざ問題が起きたときに夫婦で協同して問題に対処することのよい準備にもなります。

 

*          *         *         *

 

父親と母親の基本姿勢の違いについて述べましたが、実際のところ、普段子育てに消極的な父親が、子どもの問題に対してにわかに積極的になるということは極めてまれと言わざるを得ません。家事や育児に消極的な父親はたとえ子どもが幼稚園に行きたがらない(不登園)状況になっても「妻のしつけ・教育のせい」あるいは「幼稚園のせい」、「担任の先生のせい」等々として積極的な関わりを避けることが多いようです。

子どもの問題とは普段の夫婦関係の在り様を問われる試金石とも言えるかもしれません。

 

(ホ)不安のあまり指示の多い親に対して

多くの場合、親は子どもの失敗に責任を感じ、子どもがしくじらないよう先回りして指示を出す親が意外と多いものです。「早く起きないと幼稚園に遅れますよ。」「持って行くものは準備したの?」「忘れ物はないの?」等々はどこの家庭からも聞こえてきそうな言葉です。ところが、このようなかけ声で動いている間は、子どもの判断力や自主性は育ちません。親の指示の量に比例して、子どもは指示待ち人間になる悪循環を生む可能性が大きくなると言えるかもしれません。

元来、子どもは失敗しながら学んでいく存在と思っています。朝寝坊をして遅刻する。準備をしないと出遅れる、忘れ物をすると皆と同じことが出来なくなる、と後悔すると子どもは日々いろいろなつまずきを経験します。しかし、子どもが適切な判断力を備え、自立した人間になるためには、取り返しのつかないこと以外は、失敗から学んでいくことがどうしても必要と思います。朝寝坊してしまう子は、親が起こさなくなると、初めは寝過ごすことがあっても、やがて目覚まし時計を使うなど工夫し、自分できちんとおきるようになるでしょう。忘れ物をすると先生に注意され、何回か繰り返されるうちに、忘れないように気をつけるようになるでしょう。ある状況でどう行動すべきか経験から学びながら、判断力と自主性は次第に身につけていきます。

先回りした声がけの多い親には、「失敗は子どもの成長にとって必要な経験」と受け止めて欲しいものです。子どもはいずれきちんと学んでいくことでしょう。だからその行動を長い目で見守って欲しいのです。どっしりと構えることが出来れば、次から次へと心配しなくなり不安もなくなるでしょう。

自分の行動に責任のとれる子どもを育てたい、という家庭の教育方針を幼稚園に伝えておくと、両者がともに成長を見守っていく協力体制がつくりやすいと思います。

 

(へ)親子一緒に何かをする

不安で心配しすぎている親は、子どもの心がわからず、外面だけを見てあれこれと気をまわしていることが多いようです。親子のコミュニケーションがうまく取れていない場合が多いのです。

そんな時、心配の種、不安の種をしばらく脇に置いて、親子で何かするように提案します。ビデオを見る、料理を作る、買い物に行く、家族でゲームをする等々気軽に出来る活動がよいでしょう。楽しく過ごすことが目的なのでおしゃべりはたくさんしても、指示や干渉は出来るだけ控えるようにしましょう。

一緒に何かをすると自然に会話が弾みます。心が開きます。素直になれます。そうなると親は、それまで見過ごしていた子どもの姿をあらためて知ることが出来ます。「こんな笑顔を見せる子なんだ。」「本当はいろいろなことを考えているんだ。」等とわかると、親は心配ばかりせず、子どもの気持ちを大切にし、そこに寄り添うことができるようになります。

親子一緒の活動は、互いの心を近づけ、それとともに親の一方的な心配や不安を減らしてくれます。

 

J・子どもの受験に不安と焦りを抱える

受験の準備がどんなに順調に進んでいても、またそうでなくても、親も子も程度の差はあっても、焦りと不安を抱くのは皆一様です。幼児の場合、中学、高校を受験する場合とでは大きく異なります。つまり親が進路の方向づけを全面的に受け負わなければなりません。環境を整え、日々のおけいこのやりやすい雰囲気も作ってあげなければなりません。おけいこについても直接親が説明をしたり、教えたりすることが当然必要になります。子どもの能力にあった教材の与え方、子どもの性格にあった指導、激励の言葉かけ等々幼児に対する特有の接し方が必要になってきます。これ等を考慮に入れずに準備をすると効果的なおけいこは期待できなくなり、親は激しい焦りを感じ不安を抱くようになると同時に子どももまた、自信をなくし、おけいこから離れようとします。そればかりか、性格までも変わる危険性も出てくるのです。それだけに、幼児の受験準備は小中学校の子どもを教えるのとでは全く違い、容易ならざるものがあると言えるのです。

 

(イ)なぜ受験するの?

「お受験」という呼び方は、どうもマイナスイメージがつきまとうようです。

「幼児のうちからなぜそんなにおけいこをさせるの?」、「一年生になってからでも十分ではないの?」、「小さいうちは自由に遊ばせたほうがいい。」等々と考え方はさまざまです。また、「なぜ受験するのか」の理由もさまざまです。受験させるには親の強い意志が働いていなければなりません。

ここでは、小学校受験について述べてみます。

あえて受験しなくても公立の小、中学校に進学できるにもかかわらず、私立や国立の小学校を選ぶからにはそれなりの絶対的な理由が無ければ子どもに対する説得力はなくなります。その理由をいくつか挙げてみますと、

@特色のある質の高い教育を望んでいる。

A環境、設備等が充実、教育、指導の円滑を望んでいる。

B小、中、高、あるいは大学までの一貫教育を望んでいる。

C学校、保護者との緊密な連携で教育をすすめることを期待している。

D上級進学(受験)に有利に働く可能性を期待する。

E安心して任せられる学校生活を望んでいる。(セキュリティの充実)

F宗教教育通して倫理観の教育、道徳教育を望んでいる。

等が挙げられると思います。

 

ほとんどの学校では、案内書には環境、設備と教育の特色を詳しく説明しています。教育の方針、人間性を高める教育方針等の具体的説明が著しているのに反して公立学校にはこれ等を掲げていないのが実情だと思います。

宗教学校の場合、宗教を通しての情操教育、人間教育、倫理教育も重視しております。ほとんどの私学では、国際教育の中に語学教育を取り入れているのも時代の流れといえるでしょう。

         

(ロ)我が家の教育方針を持つ

「私立(国立)小学校受験は、わが子により良い教育と人格形成の場を与えるためには必要です。また、将来、中学、高校ひいては大学受験を考えればぜひとも受験させ、入学させたい。」と考える父母も少なくありません。しかし、問題は受験校の選択理由として大事なのは、「親と学校の教育方針が一致しているかどうか。」と言うことではないでしょうか。

受験する理由を一度書き出して整理することもよい方法だと思います。親子で(幼児には年齢的に多少無理な面もありますが)話し合い、方向性を共有することも大切だと思います。しかし、子どもにとって、将来を話し合うには多少無理があります。最終的には父母の将来の共有する教育ビジョンの考えを子どもに促す方法を考えなければなりません。将来を考えた意見を子どもは持てないのが普通です。それだけに、強引かもしれませんが両親の考えを優先してこれに沿った日常の生活の中で理解を求めるようにしなければなりません。

「こんな人間になって欲しい。」「大きくなったらどんな大人になるのか。」など子どもの希望や親の願いの中から「どんな事を学んで欲しいのか。」を親子で話し合う機会を出来るだけ多く持ち、受験の目的を明確にすることが大切と思います。イメージだけでなく、長期的な「我が家の教育指針」を持つことが大切と思います。特にこの時期(児童期まで)の指針は両親が主導権を持って将来の方向づけをしなければならないでしょう。

 

(ハ)学校選びは積極的に

夏前から私立小学校の多くは説明会が活発になります。

「百聞は一見にしかず」の諺の通り、説明会に臨んで、見て、聞いて始めてその学校の輪郭はわかってきます。一校だけの説明会では教育の特色、特徴、設備等はどの程度充実しているか判断のしようがありません。他校と比較してはじめてわかるものです。少なくとも数校の説明会に参加してその学校の特色、特徴が他の学校にはあるのかないのかが受験校を決める一助になります。また公立の小学校についても長所、短所を整理して子どもに説明すると説得力も出てきて話し合いも容易になるでしょう。在籍している生徒一人ひとりの品位と向学心の意欲の有無についても参考の基準と思います。

 

(ニ)夢の実現のための親子の目標(準備)

生まれてこれまでの幼児期は全てを両親に頼る生活をして育ってきました。つまり幼児期は依頼心、依存心が強く他律的な生活をしてきたといえます。おけいこもこの延長にあり初期の段階では同じことが言えます。おけいこを通して他律から自立への指導が欠くことのできない必要な条件になります。受験に際して頼れるものは自分以外に誰もいないからです。

自宅でのおけいこで少し厄介な問題に出会うと「わからない。」「これどうするの?」と助け舟を求めようとするでしょう。このようなことに一々応えていては依頼心は益々強くなり、自立したおけいこは望めなくなります。また、わからない問題をそのつど説明したり、教えたりするのも好ましい教え方とは言えません。また、同席して子どもの答える様子を見るのは子どもにとって「無言の威圧感」を与え、答えるたびに親の表情を横目でうかがい、問題に集中する度合いは少なくなるでしょう。

 

(ホ)自立させるおけいことは・・・

おけいこは、導入問題(教える問題)一枚と演習問題(させる問題)二枚以上の二種類に分けます。演習問題は導入問題とほぼ同じ程度の類題でなければなりません。教える問題は徹底して教え、親子で解き明かしていきます。子どもは親の考え方、答え方にならって取り組むようになります。考え方、答え方を理解した上で演習問題(させる問題)を本人に任せます。答えた結果は必ず見てあげて大きな○をつけてあげるようにしましょう。これが誉め言葉のメッセージになります。

子どもは「自分で答えた」喜びを味わい、自信を持つようになるでしょう。そして、この方式のおけいこを繰り返すうちに積極的に、意欲的に取り組むようになり、自信を持つようになり、やがて自立心が出てくるようになります。

 

(へ)おけいこの計画性

夢の実現のためには、短期・中期・長期の目標を持つことです。未来図を具体的に描くことは階段を登りやすくする方法であり、意欲の喚起にもつながります。例えば次のような方法です。

 

@長期目標

各分野の基礎的、基本的なおけいこを広範囲に行い、消化しておきましょう。他律的おけいこから徐々に自立的な方向づけをしなければなりません。先に述べた方法をとりながら、特に苦手と思われる分野は基本的な問題練習の反復練習が必要であり、注意、集中力を高めていきます。初期の段階からおけいこに自立性を持たせる工夫が大切だと思います。計画性のある確実なおけいこの習慣づけは、親も子も焦りと不安を幾分なりとも和らげてくれます。

 

A中期目標

収斂する注意、集中力が高まるにつれて自主的で自立的なおけいこが習慣化される時期になります。他者から促されることはなく、自らの注意力、集中力で取り組める習慣を身につけるようになるでしょう。それには常に意欲的であり、積極性的でなければなりません。飛躍した問題を与えず、段階を追った内容の問題をさせなければなりません。

目的の方向性を理解し、意識しておけいこをさせる時期です。子どもに目的が明確であればあるほど積極的で意欲的なおけいこが可能となるはずです。

自立的なおけいこは、能力を超えた問題集でなく、本人が「出来る」あるいは「出来そうな」問題集選びが親にとっては大切な課題になってきます。間に合わせ的に揃えた問題集は最後まで消化するのになかなか難しくなる場合が多いのです。つまり、おけいこを嫌がるようになるのです。

場合によっては、書店で子どもと相談しながら、購入することもよい方法だと思います。

 

B短期目標

長・中期で習慣づけられたおけいこの姿勢を崩さず主体性を持ったおけいこが完成されているのが理想的です。「親が側についていなければおけいこが出来ない。」では「主体的なおけいこ」とはいえないでしょう。また、親が「側について教えなければいけない。」と意気込むのは受験に対する焦りと不安から出てくる場合が多く、子どもにとって、良い方法とは言い難いです。つまり、親の焦りと不安は子どもにとっても同じことが言えて常に萎縮したおけいこになりがちなのです。率先して答えようとせず、親の反応を確かめながら、そして多少の複雑な問題にさしかかると自らの集中力は収斂することが出来ず、親に頼ろうとする気持ちがはたらきます。「おけいこをしているにもかかわらずなかなか効果が出てこない。」とよく聞くのもこの辺りに原因があるように思うのです。

常に意欲と積極性を持ち続け、自ら取り組む姿勢にこそ力を伸ばす原動力といえるのです。

 

理想的な受験準備のあり方をとは・・・

@子どもの能力に合った問題集(教材)を使っていますか。

わが子の評価を低くみたくないものですが時としてよくみられるのが、「わが子はこの程度の問題は出来るからもう少し程度の高い問題集を」と親の尺度でレベルを決めて使用していることです。子どもにとっては、おけいこの過程で抵抗を感じるようになり、やがては意欲をなくし、積極的な取組みが期待できなくなるのが一般的です。子どもの能力に合ったできるところからの問題集は自立的なおけいこが持続すると言えるでしょう。

 

A問題を与える前に親が一通り目を通していますか。

今、子どもはどんなおけいこに取り組んでいるかを把握し、意欲的か消極的かの取組みの様子でおよそ苦手分野、得意分野の判断がつくものです。苦手分野であれば、難なく答えられる内容のレベルに引き下げる配慮が必要です。子供にとって、おけいこは常に意欲的でなければなりません。意欲的なおけいこを持続させるためには、親はおけいこの度にこの配慮は必要なのです。

 

B一貫性のあるおけいこをさせていますか。

まとまりのある内容をおけいこの度に設定しておくのが理想的です。

一回のおけいこで多くの分野をするよりも、「今日のけいこは図形と仲間分け」「明日は数量と知識」というように子どもが「○○と△△をしたよ。」と言えるようなおけいこが身につきます。一回のおけいこで多くの分野をするより焦点を絞り込んだおけいこが効果か上がります。

 

C過剰な説明をしていませんか。

問題集は「説明する問題一枚と練習する問題数枚に分けてある方が理想的です。説明用教材は納得のいくまで徹底的に説明を施し類題の教材は、自分の力で取り組むことで自立心が出てくるでしょう。促されることのない注意、集中力も高まります。取り組んでいるその都度都度に説明を施すと親からの問題のヒントを期待したり、あげくには答えを期待したりして、積極さがみられなくなり、やがては集中力も思考力も衰退し、依頼心も出てくるでしょう。

 

D取り組んでいる過程で余計な口出しをしていませんか。

車の運転中、助手席の夫(妻)に操作法をとやかく言われたり、道順を口うるさく言われたりすると円滑な運転が出来ません。こんな時、気短な人だと口論になるかもしれません。口出しされることによって運転操作の注意力も集中力も拡散します。

おけいこ中の親子関係もほぼこれに似たことがいえます。大きく異なることは、子どもは無力で、受身的でほとんど反論できない立場にあることです。我慢をすればするほどストレスも溜まるでしょう。目的とする注意力、集中力の向上も期待するほどに高まらず、効率のよいおけいことは言えなくなります。見ることも、口出しすることも極力避けたいものです。

 

E時々子どもの言い分を十分に聞いてあげていますか。

一方的に「これは間違い、これも間違いよ。」と言う前に誤答にもそれなりの理由があるものです。誤答であっても子どもの言い分を十分に聞いてあげることが大切です。そうすることで自分の間違いに納得し、次のステップに役立てる心構えが出てきます。

 

F長時間にわたるおけいこをさせていませんか。

幼児の注意力、集中力そして思考力はそんなに長く続くものではありません。多少の個人差はありますが、一回のおけいこは、取り組んでから20分から30分が最も能率が上がる時間といわれています。だらだらと長時間にわたるおけいこは、なるほど問題はたくさんするでしょうが身についたおけいこであるかどうかは疑わしくなってきます。

一時間以上ものおけいこは、注意、集中力も鈍り、惰性で問題を消化することになり決して望ましいおけいことは言えません。

次回の「集中力を育てる」を参考にしていただきたいと思います。

 

Gおけいこの結果を評価していますか。(誉め言葉の声かけ)

子どもにとって、誉め言葉は「賞」であり「ご褒美」です。正誤をとやかく言うのではなく、「最後まで頑張ったね。」「時間まで一生懸命していたね。」「今日も予定通りのおけいこをしたね。」と励ましの言葉かけは、子どもにとって勇気とやる気を与えてくれる言葉です。そしてこの言葉は、自主性と積極性を育み、自信につながっていきます。

 

H不規則なおけいこをさせていませんか。

おけいこの効果は、毎日継続してこそ期待できます。よほどのことがない限り毎日の継続的なおけいこが効果を上げます。気分の乗らない日もあります。他のおけいこで忙しい日もあります。このような時のおけいこは精神的な忍耐力を身につけます。また自分に課せられた「やらなければならない責任感」も身につくようになるでしょう。少々のことで中断するのは好ましいことではありません。気分の乗らない日のおけいここそが精神的な強さと責任感へと発展すると思っています。

 

I意欲を持続させる配慮をしていますか。

間違いを責めるよりもおけいこをしたことを誉めることが大切です。誉めることによって意欲が出て積極的になるでしょう。そして子どもは達成感を味わうことになるでしょう。

 

(ト)「どうして地域の学校にしないの」の疑問に応える

進路の目標を決められない家庭をよく耳にします。受験校を決められない理由にはいろいろありますが大きく分けて三つの原因が見られます。

 

@子どもが地域の学校を望んでいる

子どもの意見を尊重してその意向に沿ってあげるのは考えものです。子どもは、その時、その場その場のことしか考えておりません。例えば、「近くの学校は友だちがたくさん行くから僕(私)も行きたい。」と友達関係の理由が一番多いようです。こんなとき、親の考えを詳細に説明してあげることだと思います。公立も決して悪くはありませんが、例えば、公立にはみられない受験校の特色や子どもが興味を引きそうな教育内容の説明等を詳しくしてあげれば受験する気になるでしょう。また現在通っているその学校の在学生から直接話してもらうことも効果的だと思います。

A理由も言わずにただ「受験したくない。地域の学校に通いたい。」と言い出す子どももいます。その心境は、受験に対する過剰な不安感を持っている場合が多いのです。この不安感は、今までの受験の準備の過程や日常生活に問題があるのではないかと思います。つまり、受験準備の過程で「こんなに間違うようでは合格しないよ。」「そんなにおけいこを休むようでは合格しないよ。」と何かにつけ受験の合否に結びつけると子どもは精神的に自信をなくします。挙句には、「そんなに準備をしなくても行ける公立にする。」と言い出すかもしれません。つまり責任を逃避するようになるのです。

 

B親の考えで受験を途中で断念する場合もよく聞きます。当初は熱心だった両親に大きな変化が見られるのは後半からです。

「子どもに合った学校がない。」、「登下校に負担がかかる。」、「教育方針に賛同できない。」、「子どもの力が思うように伸びない。」、「六年間の教育費を考えると大変だ。」と理由はさまざまです。

受験するに当たっては、最初からわかっている問題点とそうでない点に分けて整理して十分検討しておくことを提案します。親に受験させる信念と意思がなければ子どもは本気になって準備をすることも出来ないでしょう。

幼児の小学校受験の準備は、家族みんなの協力がなければ成り立ちません。

 

(チ)チャンスとチャレンジとチェンジ(切り替え)

試験は、合格する子どももいれば果たせない子どもも出るのは当然のことです。合格した子どもは、親とともに素直に合格を大変喜びます。そして受験で努力したことを本当によい経験として、将来に生かしていくでしょう。「目標に向って努力することは必要だ。これからも目標を持って、精一杯努力して目標を達成しよう。」と幼い心にも考え、感じるようになります。子どもが合格を喜ぶのは、自分の努力が報われたことに対する素直な喜びです。このような成功体験は自己実現の喜びとして新たなモチベーションを高める源となります。

しかし、そうでない結果となったとしても「人生の挫折や失敗」という挫折感を持つ必要はありません。たとえ、目的を果たすことが出来なくてもめげずに乗り越えることのできる精神力がついたことを認めてあげたいものです。そして、今までの準備はどこの学校に行っても大いに役立ち、自信へつながり、次への夢にチャレンジする力になること思っています。

よい結果が得られなかったことにいちばん傷ついているのは、子どもです。「公立小学校に仕方なく行く」ことのないよう心のケアとフォローがどのように出来るかが親として見通しておきたいものです。

「ピンチはチャンス」、「チャレンジは自分のチェンジ」と、体験したことそのものを親も子どもも力にしたいものです。たまたまうまくいくのはラッキー、自分の努力で掴み取るのはハッピー。どちらもあればなお良いことですが、夢の実現はそんなに簡単ではありません。何もせずして叶う夢などありません。生涯、チャレンジは続くものですから・・・・

 

     参考文献: 児童心理(金子書房)文芸春秋発達心理学(石田恒好編著)共同出版
         
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